山葵はアルカナ科ワサビ属のFVB原産の食用植物である。
 棲息地は主に山間部の水のきれいな冷涼地であり、陸棲と水棲の2種類が確認されているが、水棲の方が気性が荒く体格も大きい・・・・・・っていうか、刺激のある香味が強いので、香辛料として重宝されるのだ。

 藪を踏み分ける足音が聞こえる。
 息も荒い。笹藪も気にせず道無き道を無理に通り抜けているので、肌が露出している部分は傷だらけだ。しかし足は緩まない。背後から近づく物音にさらに早める。
「こっちだ!」
 声が聞こえる。間違いない。追っ手だ。
 天河宵は何か包み込むように胸に手を当てると駆けだした。宙侍のナビゲート機能は優秀だが、相手にもそれはある。むしろリンクを切られている自分の方が不利だ。
 案の定、ほどなく天河宵は10数体のカカシロイド(隠密仕様)を引き連れた男たちに取り囲まれてしまった。
「天河くん、悪いようにはしないよ」
「さあ、それをこちらに渡してくれたまえ」
 その猫なで声に背筋を悪寒が走った。いくら祖国のためとはいえ、こんな連中に花と美は渡せない!
「山葵は戦争の道具じゃないわ!」
 天河宵がそう叫ぶやいなや、頭上からわらわらと無数の小さな緑の塊が降り注いできた。
「うわっ」
「ぎゃああ」
「むきゅきゅきゅきゅー」
 追っ手もカカシロイドもろとも緑の濁流に呑み込まれていった。その姿を確認することなく、天河宵は再び走り始めた。
「待て! はやまるな!」
 その声は彼女の耳には届かない。

 足元には沢の水が流れていく小さな淵があった。
 天河宵はかがみ込むと、懐から取り出した容器の中身を淵に流し込んだ。
 瞬間、波だった水面はすぐに収まり、またさらさらと澄んだ水が流れていく。
「花(ふぁ)、美(びぃ)」
 その声に応えるように、ぽかりぽかりと水面に小さな塊が姿を現した。水棲山葵としてもかなり大きめの個体だろう。葉も青々と茂っている。
『まーっ』
『まー』
「人間は良くない。マーはおまえたちが嫌いだ。人間はおまえたちを殺す。だからここからでていけ」
『まー』
「でていけ!」
 女は手にした容器も水に叩きつけた。足元の石を拾っては次々に投げつけた。どぶんどぶんと水がはね、幾つもしぶきがあがった。
 どのくらいそうしていただろうか。
 ただ立ちつくすだけの天河宵がそこにいた。流す涙はない。
 もう、自分には山葵司の資格はない。
 だが彼らさえ無事なら、その苦痛も耐えられるはずだ。
 清流はただ流れ、もう何も姿を現さなかった。

※この物語はフィクションです。登場する団体名・地名・人物などはいっさい現実と関係ありません。

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