戦争がはじまります。
どうか逃げてください。

国中に流された言葉は短かった。
故に切実でもあった。


農家の手伝いをしている少女の耳にもその言葉ははいった。
草取りが終って、皆で大きなおにぎりにかぶりついた時だった。


大切なものをもって逃げてください。
大丈夫、まだ時間はあります。
けれどなるべく早く
早く逃げてください。
少しでも安全なように。


 散歩のかわりに見回りしていたサムライは表情の見えない赤いかぶとの下から、一つ一つの畑を回って同じ言葉を繰り返した。
 人々の誘導を手伝いをすると同時に、戦場になるであろう場所へ、地雷を埋めていく。人々への説明や先導をする傍らの戦場作り。田んぼの中では植えたばかりの苗がそよそよとゆれる。


大切なものをもって逃げてください。
少しでも早く、安全な場所へ。


あちらこちらの藩国で戦火が上がっていた。
この国は不気味なほどに、(そう恐ろしく戦争特化した国であったのに)静かであったから、ほんの一握りを除いて今が戦争中だなんて、(あの宇宙とかいてネットと呼ぶ故郷から逃げ出して以来の)そんなことを思い出せなくなっていたのかもしれない。


 あぁでもきっと平和にしていられたのは国民だけなのだ。

 僅かな緊張と、けれども慌てた様子の無い赤い鎧、黒い鎧が、育てる為の場所を戦場へと変えていく。赤い兜の下の表情は見えないが、その手は田んぼを一つ潰すたびに僅かに震えているようにも見えた。





 少女は手当たり次第に荷物を詰め込みながら思った。
今田に植えたばかりの稲穂は金色に輝けるだろうか。
この冬に生まれた子馬は緑を走れるだろうか。
非常食をアルバムを僅かな着物を。
この狭間のような狭くけれど暖かく甘い優しい時間の中で新しくてに入れた物達を鞄に詰め込んでいく。


あの宇宙とかいてネットと呼ぶ故郷から逃げ出したときのように。


ただ一つ共通する(他の物はすべてなくして、この国で手に入れた)アルバムの表紙を撫でるとざらりと皮が指に引っかかった。


金色の稲穂を
薄紅の桜を
鮮やかな萌黄を


もう一度見ることはできるだろうか。


長屋の入り口では赤い鎧を着た侍が待っている。
一つ一つの家を叩いて、声をかけ、逃げられる者達の護衛をする為に。(護衛など必要ない、ともういいきれないのだ)


少女はぐ、と唇を引き絞ってアルバムを鞄の一番上に放りこんだ。体重をこれでもかとかけてチャックをしめる。
ずんと右手にかかった重さがこの国で手に入れた思い出の重さだ。
僅かな家具の残された部屋を見回して、少女は戸を閉めた。


大切なものをもって逃げてください。
顔の見えない兜の下からサムライは繰り返す。
その目に落ちる影が泣いているようだと少女は思った。


戦争がはじまります。


その言葉が落とされた日の空は
僅かに肌寒く、恐ろしく高く澄み渡っていた。


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