この国は四季がある。これがあるということは、季節は常に変化しているということである。
花が咲く。ほんの少し空の色は薄く、散る花弁は欠けたところのない木からはらはらと空を覆い、薄紅の風が国中を一撫でする。春が来たのだ。
この国の人間は四季の何をも厭いはしないが、この薄紅の木が国を覆い尽くす春と、黄金の稲穂が頭をたれる秋をことのほか喜んで迎える。春は始まり。長い冬を抜けて命が産声を上げる春は、薄紅色の風で目覚める。
桜が咲いた、桜が咲いた、人は桜の下で歌い、また春がきたことを天に感謝し産声をあげた命を敬う。歌い踊り、宴を。実りの雫で酔いながら、人々は春に喜んで笑う。
春だ春だ、と。
この国の夏は向日葵の季節だ。
そこかしこに向日葵が咲き誇っている。道ばたに、庭先に、公園に、公共施設の回廊沿いに、そして建物や洞窟の中に入っても小さな植木鉢サイズの向日葵がずらりと並んでいるのがこの国の夏だった。非常識といっても良いくらいだ。しかし国中が黄色に染め上がるというわけでもない。確かに大半は黄色い向日葵だが、中には赤いヒマワリや白いヒマワリが混じってアクセントをつけているので、話だけで想像するほどのインパクトはなく、むしろ夏らしさを強調し、楽しいものとして受け入れるためのアクセサリーとなっているのだ。
またこれら品種改良された向日葵たちの種はおつまみに、あるいは植物油の材料にも加工されているが、最近では音に反応して葉や茎を揺らして踊るタイプや日光を備蓄して外敵に対して放射するサンビームフラワーなども登場してきている。
命の夏の終わりは地面から這い上がる冷たさではじまる。
山の裾野から、天へと赤が駆け上がって、森が忍び寄る秋の気配に一枚一枚と衣を脱ぎ、鮮やかな緑はやがて黄色や赤へとその色を変えていく。
秋の山は姫君の裳裾のように緩やかにその紅を広げ、平野はその色で実りの時期が来たことを知る。実りは黄金たなびく平野だけではなく、山にもその恩寵を与え、森に住む動物達は来るべき冬の為に、豊かに実る果実や木の実をたっぷりとその毛皮の内側に溜め込む。少し寒い風の中、この国は赤と黄金に染まる。
この国の冬は椿の赤が印象的だ。夏の間は向日葵に隠れていた生け垣のそこかしこに、真っ赤な花を咲かせているのだ。
他国では、咲き終えた椿の花が丸ごと落下するのを「戦士の首が落ちるようだ」と嫌うところもあるようだが、この国のサムライはむしろ「俺を倒そうと思うなら、首を一撃で切り落とすことだ!」「敵の首をこのくらい見事に落としてこその戦士だ」とむしろ好む傾向にあるようだ。まったく犬らしいポジティブな発想である。
また椿もまた向日葵と同じく油を絞られ、貴重な薬や油として用いられている。
どの季節でも、咲き誇る花たち。
この国の花は綺麗というだけではなく、実も伴って常に私たちと共にあるのだ。
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